KABELSALAT

もつれたケーブルみたいな日々を解くかんじのブログ

やる気と運の話

運がいい人

世の中には「運がいい人」と「悪い人」がいるらしいが、私は確実に前者に分類されると思う。もちろん今まで順風満帆とはいかないが、学校生活や受験、就活、仕事の様子を鑑みるに、概ね「運がいい」と思っている。

私が入れた高校は県内でもトップクラスの進学校で、入試も前期入試と後期入試があった時代、前期入試で合格することができた。前期入試は筆記の点数がモノをいう後期入試とは違い、学校側が出題する問題に答え、面接、内申点の合算で合否が決まる。その問題として出題されたのが、「外国人に道案内をしろ」だった。

全部英語で書いてもいいし、日本語でもいいらしい。(入学してから友人に聞いたところ、外国人のために全部ひらがなで書いた人も、漢字にルビをふった人も合格していた。)私はというと、たまたま英語の教科書のおまけページにある「英語での道案内」を丸暗記していたことがあって、それをそのまま書いた。本当にたまたま暗記していただけなので、入試当日、問題を開いて自分の運の良さに驚愕したものだ。

運がいいと言えば、今の会社もそうだ。私は今の仕事は好きではないが、会社としては「ホワイト」だと思う。私は全然違う業界を志望していたが、「保険」のつもりでまったく違う業界を二、三社受けておこうと選んだのが今の会社だった。

私がどうしても勤めたいと兼ねてより憧れていた企業からはお祈りを頂き、私は渋々今の会社に入ったのだが、私が入社して二年もしないうちに、私が勤めたかった企業は業績悪化で大参事となっているのを見てしまうと、「そっちはやめておけ」と誰かが難を避けてくれたのではないかと思ってしまう。

幽霊が見えない晴れ女

念願の旅行で暴風雨といった経験は私にはない。いつもどんより曇り空、時々雨の紳士の国、イギリスですら、私が滞在中は雲一つない青空が広がる程、私は「晴れ女」だ。よく一緒に旅行にいく友人も晴れ女で、二人そろうと雨予報が晴れになったりする。

晴女は稲荷憑き、雨女は龍神憑き、なんて噂がある。

私の祖父母の家の庭にはお稲荷さんがいるが、そのお稲荷さんは、元は神社に祀られていたらしい。台風で神社が崩壊し、流されていたところを曾祖母が見つけ一時的にうちの庭で預かっていたが紆余曲折あって今もうちの庭に落ち着いているという経緯がある迷子のお稲荷さんだ。実はイギリスに行く前、庭のお稲荷さんの経緯を聞いた私はお供えを持っていくついでにお稲荷さんに言ったのだ。

「ずっと庭にいたら退屈でしょう。私に付いてくるのはどう?私といたら色々なところにいって、色々なものを見れるよ。」

だから晴れると私はついつい、今日もありがとね、お稲荷さん、と言ってしまう。

 

先週、白蛇神社の祭りに行ってきた。

龍神系神様の「白蛇」祭りに相応しく雨予報だったが、私のお稲荷さんは優秀なので、神社につくまでは曇りだった。元より神社の参拝よりも、お祭りに来る天然記念物の白蛇を見るのが目的だったので、白蛇様のお祭りにお稲荷さんを背負って長居をするのもな、と一通り参拝してとっととお暇しようと鳥居を出た瞬間、ぽつりぽつりと雨が降り出した。「すいませんもうお暇しますからせめて駅までは、」と心の中で言ってみたが、結局駅まで待ってはくれなかった。

 

一応言っておくが、私は霊感はない。

ないどころかマイナス値なんじゃないかというレベルで霊感がないし、霊や死後の世界を信じていない。心霊番組やほん怖を見ていても「いやいや、それはねーだろ」と冷静に突っ込んで笑ってしまうくらいに信じてない。(その反動か、ホラー映画が大好きだ)なのに神様、とりわけお稲荷様を信じる、というか、存在するかのように振る舞ってしまうことは矛盾しているとは思う。

私には霊感はない。しかし物凄い「野生の勘」があることだけは自覚している。取り返しのつかない悪い目にあったことがないので、実際に悪いことを回避できているのか確認しようがないのだけれど、たまに、本当にたまに、「これはまずい」「ここから先は入っちゃアカン」「なんかヤバい」みたいな野生の警報が鳴ることがあり、私は自分の野生を信じてそれを回避するようにしている。

その野生や、度重なる運の良さになんだかんだ理由とつけようとすると、神様、とりわけお稲荷様が一番都合がいい、納まりがいいから信じて仕舞うのではないかと思っている。

 

やる気は運を掴む?

散々運がいいと自分で言ってきてなんだが、「ほんとにあなたは運がいいね」と他人に言われるとムカついてしまう。

運がいい。確かに私は運がいいけれど、それだけじゃない。偶然でなく、誰かに運よく選ばれたのでなく、運を掴むに値する努力をした時に運を掴んだ自覚がある。

高校入試は、別に道案内を覚えてなくても内申がオール5だったので前期でも後期でも受かっただろう。でもそのオール5は、塾に行き、100点を取らなきゃ殺されると心底怯え、深夜まで勉強し続けた結果だ。運がいいと言ってくる同級生が家族で和気藹々とテレビを見て、放課後友達とカラオケをして、遅くまで文化祭や体育祭の準備をする時間と引き換えに手に入れた当然の見返りでもある。

就活だって何百という企業にエントリーし、WEBテストの勉強、業界研究、自己分析のみならず、受かるエントリシートを作る為に試行錯誤し、面接で失敗しないために自分の面接の様子をビデオに撮るなどして改善を行ってきた。

「運がいい人」は目的を達成する為に全力で走り続けている。走りながら、周囲のものをなんでもかんでもがむしゃらに掴んでいく。運はきっとその中に小石程度の大きさで潜んでいて、あるとき振り返った時にそれを見つけて、「ああ、君のお陰だったんだね」と納得する為のものなのだろう。

 

意味付けする人

今の私はというと、丁度そのやる気が一年前に比べて明らかに薄まっている。

一年前は、上司や関係各所に自分を売り込んだ努力実って希望の仕事を手に入れ、責任感とやりがいを糧に日々忙しくも大変充実していた。

だが今年に入って、すっげえやりたくない仕事を回され、そこまで忙しくもないが燃えられない日々を過ごしてやきもきしている。

「興味がある」ことと「やる気がある」ことは似てるようでまったく違う。

「興味がある」のは、つまるところ、つまみ食いだけでお腹一杯になる、小腹は空いているけれども別にコレじゃなくてもいい状態で、「やる気がある」のは、食べたくてたまらなかったものを目の前に並べられ、一気に食べたいけれども味わいたい、なくなってしまうのは惜しいけれど全部食べつくしたい状態のことだ。

今は前者の状態なのだけれど、一度後者を知ってしまうと、非常に息苦しい。

きっと私は運がいいから、今の状態でもきっと今まで通り、なんとなく無難な海を渡っていけるのだろうが、ついた島がコレジャナイ場所であることは明白だ。「運」は船頭ではなく、風だったり、潮流だったり、意思を持たないもの。けれども私が右に舵を切れば、左だった潮流を右にしてくれるものも「運」だ。(本当は、私が「潮が右になるタイミング」を知っていたとしても、信じている限り、運となる。)

 

私は今舵を握っていない。

行きたかった場所を忘れてしまっているからだ。

今日はもう一度地図を広げる日にしようと思う。

本日は晴天。思い立ったが吉日だと、私のお稲荷さんがそう言っている気がする。

宿題とか適当にやっても将来になんの影響もないよ。

10年前の読書感想文

「道がなければ作ればいい」

と、高校生の私はそう書いて読書感想文を締めくくったらしい。

らしいと書いたのはつい最近まで書いたことを忘れていたからだ。

それもそのはず、その読書感想文は私のでなく妹のためにゴーストライトしたので書いたという印象が殊更薄かった。内申へのプレッシャーか、「私には書けない」とヒステリックに匙を投げた当時中学生だった妹の代わりに、私が書いた読書感想文は見事S評価を取ったらしい。

とはいえ、当時の妹は自分が書いていない文に興味はなく、まともに読んだのは卒業間近に返却された時だったらしい。(ひどい)

志望校に落ちた失意の妹には、冒頭の言葉が酷く心に響いたらしく妹はブログにこれを認めた。そしてつい最近、仕事で落ち込んでいた妹は自身の過去の記事から私の読書感想文の一節を思い出した。

そこでどう感じたのかは知らないが、「励まされた」とのことで、筆者の私にお礼のラインが飛んできたのが数日前だった。

 

人を感動させるもの

妹のお礼に、「こいつ酔ってるんじゃ…?」と疑ってしまったのは悪かったとここで謝っておくとして、その礼にも、自分の言葉にも、私自身今ひとつピンとこないのはなぜだろう。それは多分、私が人を感動させようと感想文を書いたわけじゃないことが一番の理由だと思う。

文章に感銘を受ける基準はなんだろうか。

思わず情景が目に浮かぶような美しい言い回しだろうか、それとも誰も思いつかないであろう表現力だろうか。

私は「構成」が美しい文に感動してしまう。

私が中学生の時に天声人語を執筆されていた方が、最も美しい文を書くと今でも思っている。一つの話題から始まり、次のパラグラフで一見全然関係ない話題になり、しかしそれは回り回って冒頭の話題に対する締めくくりとなる。エッシャーの絵のように、説得力を伴って必ず戻ってくる文章が、見事で美事な文章だと思う。


きっと件の読書感想文も、私はそんな構成を目指して文を書いたに違いない。

だから私は上手く文を構成できたことに満足して、内容をすっかり忘れたのだ。文に書いた内容は美しい文章を構成するための主張であって、私の主義主張を吐露したものではなかった。私は美しい文の為なら、「思ってもいないこと」をもっともらしく書くことを当たり前にやるような奴なのだ。

妹に礼を言われてもピンとこなかったのは、それがある意味私の「本心」じゃなかったからで、私はきっと、文章構成を褒められたかったのだ。

 

好きは仕事になるか

私は大学に入ってからも文章を「構成する」のが好きで、ひいては文章にするしないに関わらず、物事の辻褄が合うように言葉を構築する作業を好き好んで行っていた。

「世界にばらばらに散らばってる事象に、関係性を持たせて、今の問題を解決する」ような仕事がしたいと思った。

 

一度就活した人ならわかると思うが、そんな仕事はない。

文章というと出版業界がまず浮かぶだろうが全部落ちた。メーカーや商社もだめだった。おおよそ「クリエイティブ」なことをやる会社に私は入れなかった。


しかし読書感想文でヒーヒー言っていた妹は、俗にいう「クリエイティブ」な仕事に携わっており、ついで文章を書く機会もあり、企画や提案をする作業があるらしく羨ましくてたまらない。

私はというと、文章を書く機会がはなく、クリエイティブとは程遠い仕事だ。「社会に出たら文章を書く能力は重宝する」と父に慰められたが、仕様書を書くのに特別な文才は必要ないと思う。

私は今の仕事が好きではないので、繁忙期になると毎回「ぜってー転職してやる!!」と適職診断をするが、その度に今の仕事が「あなたに最も適した仕事☆彡」と出てくるのは中々喜劇だと思う。

今の仕事の中でも、「混迷した物事をバラして分けて名前をつけて、崩れないように建築し直す作業」だけは向いていると思うけれど、それだけやってりゃいいってもんでもない。

好きを仕事にした妹だって、「読書感想文に励まされた」というからには、「好き」だけやってられないからこそ辛くて、大変なのだろう。

 

本のタイトルは

「道がないなら作ればいい」とは、今も昔も思ったことはない。

「360度全て道なんだ」と唄うBUMP OF CHICKENの長年のファンである私にとっては、どこであろうと自分が踏み出した先が自分の道だと思ってきたからだ。

道がないというのは、つまり自分がある特定の価値観に留まっていることで、道がないように見えているだけなのだ。他責、自責に関わらず、「そもそも何で今がこんな形をしているのか」を分析してみると、前、後ろ、右、左、の他に上、下も行けるコマンドがあると気づけるはずだ。

ところで、読書感想文を書いた本のタイトルは「青空の向こう」だ。

交通事故で死んだ少年が、天国に行く前にやり残したことをやりに幽霊になって現世に戻ってくるという感動作なのだけれど、一体何をどう「構成」したら「道がないなら作ればいい」などという締め括りになるのか書いたわたしですら皆目見当がつかないので、今度実家に戻って原稿を探してみようと思う。